スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--:--  |  スポンサー広告  |  EDIT  |  ↑Top

2010'08.12 (Thu)

ほほえみ ~自分自身を信じる~


このあいだも大屋政子さんと対談したんですが、あの方はいつもニコニコしているでしょう。

いやなことがあってもニコニコしていますね。

長い年月のあいだには、いろいろいやなこともあったそうですが、はたからはいつものんきにアッパッパを着てやっているように見える。

本当はあの姿は氷山の一角で、その下に沈んでいる部分というのは苦しみと困難と涙で大変なものがあるのに、いつも人への思いやりを忘れない方なんです。

それは、自分が逃げないで苦労してきたからできるのです。

いつもほほえんでいるということは、そういう苦労をくぐりぬけてきた自信から出ているんです。

自信のない人というのは、経験からいつも逃げている人なんですね。

ワッと来たらこっちに逃げ、あっちに逃げる。

いつも横ばい人生で、前に進んだことがないし、下手をすればうしろへ下がったりしているわけです。

困難が来たらそれを突き破って、前に出ればいいのです。

そうすれば「自分はまったくだめで、こんな苦難には立ち向かえないと思っていたのに、やればできる。
まんざら自分も捨てたものではないな」と思えてきます。

自信が出てきます。

それが結局自分を大事にするための生活の知恵なんです。

自信を持つことはうぬぼれることではありません。

「自分を信じる」と書いて自信というのです。

おのれを信じるということが一番大事なのです。

よく、「私のことをちっとも信じてくれない」という人がいますが、そういう人に「では、自分のことを信じていますか?」と聞くと、「自分でも信じられない」と言うんです(笑)。

自分も信じられない人が、他人には「信じてくれない」と不満をいうというのは図々しい話ですね。

ですからまず自分が自分を信じることですね。

自分を信じられるような人間にまで自分を高めて、それで経験を積んで、練磨していくのです。

そうすると、「この前はあれだけできたんだから、今度もできないことはないわ」というふうに次第に自信が持てるようになるのです。


(ほほえみの首飾り)
スポンサーサイト
23:41  |  美輪明宏  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  ↑Top

2010'08.12 (Thu)

ほほえみ ~ほほえみを取り戻すキーワード~


人間というのは元来そういう能力を持っていますし、また、どなたにでもご守護神とか守護霊とか背後霊がいて、ご先祖様のいない人はこの世にいませんから、とにかくお願いをして、守護してもらうようにするのです。

ほとんどの人が錯覚を起こしているのですが、先祖というと本当に狭い部分の人たちだけを先祖だと思い込んでいる。

それは大間違いなんです。

お父さんの両親、さらにその両親、またさらにその両親というふうにさかのぼると、たくさんの人が先祖となってくれているのだということがわかります。

母方にも同様にいるわけですから、本当にものすごい数の人たちの血や細胞や、喜怒哀楽のいろいろな思いが一個の人間の中に入っているわけです。

そして、その中にはいいものもあれば悪いものも混在していますから、その中のよいものだけの力を借してもらうということが大事です。

清い溝を清い水が流れるように、自分が美しい想念を持つようにしなければいけないのです。

けれども美しい心というのはなかなか保てないんですね。

それを保つにはどうしたらいいか?

たとえば「南無妙法蓮華経」というのは、「妙法蓮華経に帰依します」という意味ですね。

そしてその「妙法蓮華経」というものの中には阿弥陀様も入っていれば、八百万の神々も入っている。

そして宇宙の神々のほかに、自分自身も仏の一員として入っています。

どなたにも仏性と呼ばれる仏の部分がありますし、悪魔の部分もありますね。

その仏性が「南無妙法蓮華経」という言葉で呼ばれるわけです。

だからこの言葉は自分の仏の部分がどんどん拡大されていく言葉です。

ともかく「南無阿弥陀仏」でもいいし、「南無妙法蓮華経」でもいい。

いろいろご宗旨もありましょうから、そういうキーワードを1つ持つことが大事なんです。

このキーワードというのは、つまりほほえみを取り戻すキーワードなのです。

(中略)

そういう状態で、「南無阿弥陀仏」でもいいですし、「南無妙法蓮華経」でもいいですし、神道なら祝詞でもいい、とにかく自分の好きなキーワードを唱えるわけです。

そういうことをいつもしていれば、たとえば街を歩いていてカッとすることがあっても、それから渋滞の中で車を運転してイライラして、バカヤロー!なんて言いたくなっても、ハッと「南無妙法蓮華経・・・」というふうに胸をなでる余裕が出てくる。

人間というのは、習慣づければそういうことができるようになるのです。

お題目とかお念仏というものは、そういう使い方をなさるととても便利です。

便利というと怒られますが、そのために神様がくださったと思うのです。

そういう使い方をなされば、毎日が楽に生きられますね。

人間というのは、困難が起こったり、悲しいことが起こったときには、感情だけで理性がなくなってしまうんです。

そうなってもいいから、一時間でも早く理性を取り戻せるようにするには、そのキーワードを言って、ものごとの理屈がわかるような冷静さを取り戻すようにするということですね。

それがあると上手に生きられます。


(ほほえみの首飾り)
23:32  |  美輪明宏  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  ↑Top

2010'08.12 (Thu)

ほほえみ ~第三の眼で世の中を見る~


よく、「キリストやお釈迦様が偉いんだったら、どうしてあんなに苦労ばかりで楽な目を全然見ないで、ひどい死に方をするんだ」という質問をされる方がいらっしゃるのですが、私は「あれは試験をされているんですよ」と申し上げるんです。

つまり、あれは人生の大学院なんですね。

ですから心の中が本当にきれいになればなるほど、それに見合っただけのものすごい試練が来るわけです。

けれどもそれにたじろぎもしないし、引っかかりもしない。

お釈迦様が菩提樹の下で瞑想にふけっていると、豊満な女性が色仕掛けで堕落させようと現れますね。

それでも引っかからないとなると、今度はおどかしにかかる。

それでもだめだとなると、情で来る。

「お母さんが病気だよ」とか、「奥さんが病気で死にそうだよ」と言ってくるわけです。

私たちはそれを「おためし」とよく言うのですが、その「おためし」というのはいろいろなかたちで来ます。

お金に弱い人は、経済的な面でどんどん痛めつけられますし、経済的には問題ない人には情できます。

この人生にはいろいろな「おためし」がきます。

けれどもそれに引っかかってはだめなんですね。

最初は引っかかりますが、「これは試されているんだな」と思うようになる。

守護神とか守護霊とか背後霊とかという人たちに試されているんだというふうに思えばいいわけです。

肉眼のほかにもうひとつ第三の眼というのが額の真中にあると言われていますが、その第三の眼でもって世の中を見るようにすれば「おためし」に引っかかることはありません。

それによって、世の中の裏を見ることができるからです。

弥勒菩薩でも阿弥陀如来でも観世音菩薩でも、仏様はみなさん半眼を開いていらっしゃいますね。

半眼を開いているというのは、半分で現実の世を見て、半分では脳細胞の中に映っているもう1つの次元のものを見ているわけなんです。

肉眼で見えないものを、心眼で見ているわけです。

この心眼が第三の眼です。

(中略)

そして一番いけないのは、そういう問題を解決するために、霊能者のところへ行ったり、占い師のところへ行ったりして、人の力を当てにするということなんですね。

宗教というものはそういう部分でもっていることがあるのも事実です。

そうではなくて、まず自分が教祖様になろうと思えばいいのです。

思い上がった気持ちではなくて、自分が困ったときには自分で何とか処理できるような力を身につけたいと思えば、それは必ず神様に通じます。

そういう力をつけるのはピアノを習うのと同じで、はじめはバイエルという初歩の段階があるんですが、それでも最初は指が動かなくて、なかなか弾けないんですね。

ところが毎日練習をしていますと、だんだん動くようになり、上の段階に進んでいけるようになります。

そうやってショパンでもモーツァルトでも弾けるようになっていくわけです。

そういうふうに、だれだってはじめからベートーベンが弾けたりモーツァルトが弾けたりするわけではないんです。

はじめの一ヶ月でうまくいかないからといって、私にはできないと思ってはだめです。

そう思ったら何もできません。

人がやれるのに自分ができないわけがないというふうに思って、とにかく毎日やっているうちにできるようになるのです。


(ほほえみの首飾り より)
23:14  |  美輪明宏  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  ↑Top

2010'08.12 (Thu)

ほほえみ ~人の気持ちがわかる人間になる~

私は、そういう感情的なものは、ほほえむためだけに取っておけばいいと思うのです。

では、なぜ神様は笑ったり喜んだりする能力だけを与えればいいものを、わざわざ呪ったり憎んだりする悪い方の感情まで人間に与えたのでしょう?

それは自分で憎んだりねたんだり呪ったりしたことがなければ、現在そういう感情を持っている人たちの気持ちがわからないからです。

それがわからないと、人に対する慈悲の気持ちが出てこないのです。

だから、泣いたりわめいたり呪ったりということも、1つの菩薩行なんです。

泣くのも菩薩行、笑うのも菩薩行、呪うのも菩薩行なのです。

たとえば生活に困らないくらしをしている人というのは、他人の痛みがわからないことが多いでしょう。

それは、困ったことがないからわからないんですね。

本当に自分が困ったことのある人というのは、たとえば困っている人の話を聞いて、自分が辛かったときのことを思い出して、「私があれだけ辛い思いをしたように、今この人は辛い思いをしているんだな」というふうに思うわけです。

自分の通った道だから、相手の気持ちがよくわかるということなんですね。

ですから本当は小学生には小学生、中学生には中学生、高校生には高校生というふうに、人間的な心を育てる教育をするべきですね。

知識を増やすということと、真の精神的なものとはまったく別なものです。

ちゃんとした人格を持った人間に仕立てるために学校というものがあるべきなんですが、今はただ知識を増やすためだけの学校になっておりまして、そういう点ではロボットみたいな人間ができそうな気がします。

知識というものを得たところで無駄にはならないのでしょうが、それよりももっと人格的に、人間的な慈悲の心、あたたかい心、思いやる心を教えるところが本当の学校ではないかと思うのです。

そういう心を持てば、困っている人を見ても冷たくつきはなさないで、「さぞかし辛いでしょうね」という気持ちになれます。

そして、「私はそういうときに、こういうふうな精神の処理の仕方をして抜け出したんですよ。あなたもそういうふうに発想の転換をはかって、考え方を変えていったら少しは楽になるんじゃないですか」ということをアドバイスできるのです。

(ほほえみの首飾り より)
22:53  |  美輪明宏  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  ↑Top

2010'08.11 (Wed)

ほほえみ 上手に生きる秘訣はほほえみ

今日のお話のタイトルは「ほほえみ」でございます。

ほほえみというのはただですし、誰にもできる簡単なことのようなんですけれども、それを日常の生活の中で持ち続けようとすると、これほどむずかしいものもないようです。

外国にいらした方はよくおわかりでしょうが、たとえばエレベーターなどで外国人と一緒になったりすると、まず無言でほほえんで、会釈をしますね。

エレベーターというのは密室で、非常に狭いので、その中で、何となくチラッと目が合ったときにほほえむと、何か空気がなごみます。

ところが日本人はみんなエレベーターの階数の表示を黙ってみているだけ(笑)。

日本にはそういうほほえみの習慣がないのは、これは武家社会だったせいだと思います。

けれども武家社会になる前の平安のころは、おおらかな時代でございまして、たとえば男の方が夜這いをするだけではなくて、女性からも夜這いをしかけても当たり前の時代だったわけです。

セックスと道徳というのが別なところにあったので、それは非常に健全な状態だと思うんです。

そこに精神的なものをくっつけてしまうとややこしいことになるのです。

つまりセックスというのはあくまでも生理現象として切り離していたのが平安時代だと思います。

そこへ、儒教などが入ってきまして「男女七歳にして席を同じうせず」などということが言われるようになってきますと、性を戒律でしばって厳しく戒めるようになってしまった。

そのためセックスは不道徳とか忌まわしいものにすり変えられ、非常に不健全で陰湿なものになってしまったわけです。

私はこの世の中の人がもっとおおらかに、ポーンと大空のように、こだわりなく生きていくのが当たり前だと思うのです。

平安時代のそのころは世の中も内乱のようなものが多い状態でしたから、大変な時代だったでしょう。

けれども人間は、今よりももっとおおらかでほほえんでいたのではないかと思います。

また、口はばったいようですが、私は現代女形の創始者ということになっておりまして、三島由紀夫さんとか寺山修司さんと一緒にそういうものをはじめたわけでございますが、俳優座の演出家の増美さんという方が私を評して、「あれは現代の出雲の阿国だよ」というふうにおっしゃったそうでございます。

じつは私もそれを意識していたところがあって、ズバッと言われてドキッとしたことがあるんです。

出雲の阿国というのは、念仏踊からはじまって、歌舞伎の創始者みたいになった女性ですね。

ひと頃、アングラなどでは、客席から役者を出したりして、それが新しい演出法だなどと言っておりましたが、それはとんでもない話です。

歌舞伎のはじまりとわれる出雲の阿国の芝居というのは、幽霊などを客席から出して、お客さんが逃げまどったということなんかも文献に描いてあるんです。

そういうふうに、現代の世の中で新しいと言われていることも、出雲の阿国はもうやっています。

彼女は現代よりももっと豪放磊落な、すべてにとらわれない念仏踊りというものをはじめました。

そして、お芝居というものを1つの手段にして、人々にほほえみを分け与えたんですね。

私はこの世の中を上手に生きるには、ほほえみ以外にはないと思っております。

しかし、ほほえみというのは生活に余裕がないと生まれてこないものなんですね。

余裕といっても別に金銭的に困らないということではなくて、精神状態に余裕があるということでございます。

とにかく生活に窮々としていて、お金がなくて家賃が払えない、ではパートでもしなければいけないというような現実問題の中で、精神的に余裕を持ってほほえまなければいけない。



(美輪明宏 著 / ほほえみの首飾り より)
07:15  |  美輪明宏  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  ↑Top
 | HOME | 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。