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2010'06.23 (Wed)

男鹿は蝦夷の首領「恩荷」が由来か

男鹿は日本海と八郎潟に挟まれた半島である。殊に八郎潟を抜きにしてはは男鹿は語れないのです。八郎潟は別名八龍湖・大方・琴潮(うみ)等と呼ばれ東西凡そ12km・南北約27kmの日本第2の湖であった。そしてこの湖畔の大地で二人の魅力的男性が歴史を駆け抜けたのです。日本海の王者提督阿倍比羅夫と対峙した恩荷(オガ)と、陸の王者征夷大将軍源頼朝に挑んだ陸奥最後の風雲児大河次郎兼任(カネトウ)である。恩荷は645年(斉明4年)兼任は文治5年(1189年)ともに陸奥古代の夜明けと終焉を飾った二人である。恩荷の何と言っても魅力的なのが日本書紀斉明期の記述でしょう。『4年夏(658年)4月に、阿倍比羅夫船師(ふないくさ)一百八十艘率いて蝦夷を討つ。鰐田(あぎた)・渟代(ぬしろ)二郡の蝦夷、望(おせ)り怖(お)ぢて降(したが)はむと乞ふ。軍を勒(ととの)へて、船を齶田浦に陳(つら)ぬ。齶田の蝦夷恩荷、進みて誓ひて曰さく「官軍の為の故に弓矢を持たず、但し奴等、性肉を食うふが故に持たり。若し官軍の為にとして、弓矢を儲けたらば齶田の神知りなむ。清き白なる心を将(も)ちて朝(みかど)に仕官(つこうまつ)らむとまをす」仍りて恩荷に授くるに小乙上を以てして渟代・津軽二郡の郡領(こおりのみやつこ)に定む。遂に有間浜に、渡嶋の蝦夷等を召し聚へて、大きに饗(あへ)たまひて帰す』とあるのです。つまり『弓矢は日常肉食の狩猟の為で秋田の神に誓って戦の為ではない。清純な気持ちで朝廷に仕えるものである』と云うのだ。比羅夫も紳士的だったのだろうが蝦夷も決して好戦的民族ではない証である。凡そ1350年前の秋田、男鹿、能代の蝦夷が始めて異民族大和民族と出合った初々しい描写に感動この上ないのです。小鹿島名勝誌の中に「この恩荷は今日男鹿の地の人なるべく、地名によりての人名か、人名によりての地名か。そは分明ならざれども、この恩荷と同紀5年正月の条に見へし膽鹿嶋とあるものは、今日の男鹿同名異なるべし。これ男鹿の歴に見へし初めなりとす」とある。つまり秋田の浦に現れた蝦夷の首領恩荷こそ男鹿の名の謂れなのです。蝦夷の名が綿綿と現代の都市の名となって生き続けているのは何と感動的とは思いませんか。所で国語学者の仲には「恩荷は(オカ・オガ)ではなく(オニ)と呼ばれていたであろう」と推察している。オニは鬼で往時は本来「大いなる人・畏敬すべき人・権威ある者」の意味であり現代の悪人の代名詞とは丸で逆であった事は留意すべきだ

http://www.t-aterui.jp/akita/a-oga.html
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