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2010'08.12 (Thu)

ほほえみ ~第三の眼で世の中を見る~


よく、「キリストやお釈迦様が偉いんだったら、どうしてあんなに苦労ばかりで楽な目を全然見ないで、ひどい死に方をするんだ」という質問をされる方がいらっしゃるのですが、私は「あれは試験をされているんですよ」と申し上げるんです。

つまり、あれは人生の大学院なんですね。

ですから心の中が本当にきれいになればなるほど、それに見合っただけのものすごい試練が来るわけです。

けれどもそれにたじろぎもしないし、引っかかりもしない。

お釈迦様が菩提樹の下で瞑想にふけっていると、豊満な女性が色仕掛けで堕落させようと現れますね。

それでも引っかからないとなると、今度はおどかしにかかる。

それでもだめだとなると、情で来る。

「お母さんが病気だよ」とか、「奥さんが病気で死にそうだよ」と言ってくるわけです。

私たちはそれを「おためし」とよく言うのですが、その「おためし」というのはいろいろなかたちで来ます。

お金に弱い人は、経済的な面でどんどん痛めつけられますし、経済的には問題ない人には情できます。

この人生にはいろいろな「おためし」がきます。

けれどもそれに引っかかってはだめなんですね。

最初は引っかかりますが、「これは試されているんだな」と思うようになる。

守護神とか守護霊とか背後霊とかという人たちに試されているんだというふうに思えばいいわけです。

肉眼のほかにもうひとつ第三の眼というのが額の真中にあると言われていますが、その第三の眼でもって世の中を見るようにすれば「おためし」に引っかかることはありません。

それによって、世の中の裏を見ることができるからです。

弥勒菩薩でも阿弥陀如来でも観世音菩薩でも、仏様はみなさん半眼を開いていらっしゃいますね。

半眼を開いているというのは、半分で現実の世を見て、半分では脳細胞の中に映っているもう1つの次元のものを見ているわけなんです。

肉眼で見えないものを、心眼で見ているわけです。

この心眼が第三の眼です。

(中略)

そして一番いけないのは、そういう問題を解決するために、霊能者のところへ行ったり、占い師のところへ行ったりして、人の力を当てにするということなんですね。

宗教というものはそういう部分でもっていることがあるのも事実です。

そうではなくて、まず自分が教祖様になろうと思えばいいのです。

思い上がった気持ちではなくて、自分が困ったときには自分で何とか処理できるような力を身につけたいと思えば、それは必ず神様に通じます。

そういう力をつけるのはピアノを習うのと同じで、はじめはバイエルという初歩の段階があるんですが、それでも最初は指が動かなくて、なかなか弾けないんですね。

ところが毎日練習をしていますと、だんだん動くようになり、上の段階に進んでいけるようになります。

そうやってショパンでもモーツァルトでも弾けるようになっていくわけです。

そういうふうに、だれだってはじめからベートーベンが弾けたりモーツァルトが弾けたりするわけではないんです。

はじめの一ヶ月でうまくいかないからといって、私にはできないと思ってはだめです。

そう思ったら何もできません。

人がやれるのに自分ができないわけがないというふうに思って、とにかく毎日やっているうちにできるようになるのです。


(ほほえみの首飾り より)
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23:14  |  美輪明宏  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  ↑Top

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